2018年06月06日

ある日、突然右目が見えなくなりました。

ある日、突然、右目が見えなくなりました。
そのため、本も読めず、パソコンは操作できないので、ブログも全く更新できず、
新聞、テレビ、パソコンのモニター、スマホ、ガラケー、映画、
すべて【さよなら】の日を送る羽目に・・・。

片目がひとつ見えないだけで、人生のほとんどの楽しみが消えてしまうのです。

千葉の日医大に飛び込む前は、勤務先の豊洲のオフィスで仕事中に目がかすみ、
来店してくる若い女性の顔の中心が歪むのです。
これには、わけがさっぱりわからず、
次第に怖くなってきました。

でも、左目の視力が0.2あったため、これまでは、日常の生活にはさして困らなかったのです。
ここがアウトでした。

視力1.2もあった右目を酷使するあまり、ついに失明寸前にまで
いきそうでした。

左が見えるため、なんとか地下鉄、JR、京成を乗り継ぎ、佐倉駅までたどり着きました。
ところが、ホームにすんなりとは降りられません。
両手に重い荷物を下げ、途方に暮れていたら、若い男性が「だいじょうぶですか?」
と声をかけてくれ、すぐに他の乗客の応援を頼み、やっとのことで
ホームに立つことが出来たのです。

やはり日本は住みやすい国。
有難かったですね。

家に置いていた杖が、再び必要になるとは夢にも思わなかったのです。

  エレベーターに乗るのも一苦労。

周囲は、誰も、私の右目が見えないことなど知りません。

眼帯も包帯もつけず、杖さえもついてはいないのです。

ただ、老人が、仕事その他で疲れ果ててろくに歩ける状態でないこと。

それは誰だって、見ればわかります。
ですが、その老人は転倒したり、怪我したりもしていません。
ただ疲れ切って力も使い果たし、茫然と空を見ているだけなのです。

考える余裕も亡くなっている。

そういう状態は、毎日満員電車に揺られ、ハードな仕事に頭も体も酷使。
くたくたになって都心から1時間も2時間も満員電車に揺られる
サラリーマンや女性、学生・・・みんな同じ。
ただただ耐えている・・・。

ただ耐える。
そして明日もまた同じ時刻、同じ電車に揺られながら、東京の職場、大学、等々へ行く。
この繰り返しに耐えられなけば、この世の中、そう簡単には生きては行けません。
自分の力でなんとか働き、なんとか収入をえ、なんとか食べ、なんとか生きてゆく。
それができるうちは、
絶対に人様のお世話にはなりたくない。

根性かもしれません。こんなことで負けたくない。人生に負けたくない。
ギブアップは、まだ早すぎる。

もうすぐ69歳。
九州、唐津東高校同窓会古希の会の案内状が来た。
50年前の顔と名前しか覚えていない、発起人幹事が、回答を待っている。

「これが最後でしょう。全国に世界に散らばった同期のメンバーが
古希を機会に一堂に集まり、ひたすら、旧交を温めあう事ができるのは。
10月13日、唐津でお会いしましょう!」

それまでに、右目を治し、頭の中を明瞭にし、体中を鍛え直し、活舌をはっきりとさせ、
堂々と同期の前に登場しなくては。

老齢になり、当然のように、”がたのきた”自分の頭や体をいたわりながら
(おなじように、くたびれてきた伴侶もいたわりながら・・・)
少しづつ、希望を抱いて、一歩一歩、前に進んでいく。

そうすれば、明るい未来も拓いてくる・・・。

    (先ほどの場面に戻りましょう)。


「家族はいないのですか?連絡はどうするのですか?車は?スマホも持っていないの?
ええ?ほかにどうしようもないの?あなたは、タクシー乗り場までも歩いて行けないの?」

と声をかけてくる人は、一人もいません。

当然と言えば、当然。誰も、他人をそれ以上は詮索しません。早く家に帰りたいのは
誰しも同じ。

けれど、生きていると、こういう経験は誰にも起こりうるのです。

こんな苦しみ、本人しかわからない。

自宅に帰って、横になって休んでいても、右目に違和感があるのです。
思い切って、そっと目を開けると、驚きです。
障子の十文字の桟が、なんとなく、くねくね歪んで見えるのです。

カーテンも、風が吹いていないのに、ゆらゆら揺れています。
すべての目に見える映像が、ぼけはじめ、焦点があいません。
次第におぼろげながらも、空洞になっていくのです。
これは怖い。

私は寝たまま、小刻みに貧乏ゆすりを始めました。
私の異変に、ようやく気が付いた家族が、心配して私の目の前に来ました。
見上げると、その家族の体の中心部が
空洞!

(【透明人間】というテレビドラマが、昔、放映されていたのを思い出しました)。

テレビを見ても
画面の右半分がかけてしまいます。

家族に告白すると、腰を抜かすほどびっくりです。
病院に行こうにも今は深夜。かかりつけの眼科医はとっくに閉まっている。
明日、明後日は土日で休業。
もう、どうしようもない。

家族が聞いてきた。
「救急車を呼ぶ?それほど重い症状?え?右目が見えない?もし、そうなったら
入院して手術しないと・・・。しばらく帰ってこれなくなるのでは?
仕事はどうなるの?」

妻は矢継ぎ早に話してくる。しかし、金曜の夜では、じっと
耐えるほかなかった・・・。

毎日、毎日、症状は重くなっていった。
もう、パニック!!失明するのでは?

あわてて駆け込んだ日本医科大学千葉北総病院、眼科病棟。
病名は、【白内障と黄斑円孔(学術的には加齢黄斑変性症)】と診断された。
私の担当の助教、丸山先生によると「亀谷教授が現在、海外出張中なので、帰国後
直ちに手術に入ります」と日程をつめる。

手術の日が来た。
妻は、心配でならないようで、病棟の廊下の片隅で何かを拝んでいる。
白内障の手術は簡単。5,6分で終了。
しかし、【黄斑円孔】の手術は、黄斑そのものが完全に分断されていて
穴が開いているため、
それを治療するためは、相当高度の医療技術が必要不可欠。

結局、部分麻酔だけで手術開始。

手術は順調で、実際には20分ほどで完了したが、
私には堪えられないほど
長く感じられた。

8日間入院し、きれいで明るく優しく若い看護師さんたちに手厚く
看護され、二人の先生、亀谷教授と丸山助教のバックアップのおかげで
無事、快晴の日に退院できた。

退院して驚いたことーそれは、(まだ右目の黄斑の穴は半分も埋まっていないのに)
外の景色が以前にもまして鮮明に見えたことだ!

大学病院の周囲の緑が特に鮮やかで、道路の両側の植え込みの花、さつきの色も
眩しいほど濃いピンク色で、空はどこまでも蒼く、夢のような世界だった。

これが実際の世界なのだ。
こんなにも美しい世界に
私達は生きている・・・。




posted by 悪を切る父ちゃん at 11:02| 千葉 ☔| Comment(2) | 病気 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
美しい世界に、生きていて・・本当に良かったですね。
人生に色々な出来事あり。特に、三つの坂あり。
「登り坂、下り坂、まさか!」

先日、久しぶりにブログを見たら、
長期間更新が無かったので、何事か?と不安に思いました。
ご回復され、本当に良かったです。
どうぞくれぐれもご自愛ください。

「連絡が取れれば、私に会いたい」とのコメントも読みました!

私は東京丸の内で商社に勤務をし、
その後、退職して、
今は遠方に住み、
<下記のボブ・マーリーの言葉ではないですが・・>
新しい人生の生き方を日々、喜んで歩んでいますからね。
ちょっと、無理かと。(笑)

  ” Love the life you live
Live the life you love”


勤務先のオフィスが豊洲にあるんですね。

銀行に勤める
私の息子家族が豊洲の新しいタワーマンションに住んでいます。
地下鉄豊洲駅やゆりかもめ豊洲駅に降りて、
彼らに逢いに行く事があります。
豊洲のららぽーとに行くと、
あの地域がヤング・ファミリーの世界であると本当に実感します。


私が生まれた故郷には
亡くなった両親の住居がまだ残っているので、
二年に一回位、墓参と管理の為に帰省する位です。

そして、
全ての予定が終わると、
名護屋城址天守閣跡に上って、
玄界灘の島々を越えて大陸から激しく吹きつける
荒々しい潮風に、
生きる元気をいただき、

その後、博物館を見学し、
また、遠い我が家へ戻っています。

ところで、
ブログ主より、私が数年先輩のようです。
私の世代の唐津東高校同窓会では、すでに古希の会を終えましたからね。(笑)

しかし、
小学校、中学校、高校と
同じ場所で同じ空気を吸っており、
もしかしたら?
顔がわかるかも?
いやわからないかも?
わからないかも!!・・(笑)

何しろ、田舎を離れて年月が長いもので、
故郷の人々を思い出せません、、、、、
<申し訳ない!>

ブログ主と同じ姓の方ですと、
う~んと!?
ー 必死に思い出すと?? ー
池の端かな?
名護屋中学校校長をしておられた
松永先生を思い出す位です。


ではまた。
自分が人生の嵐に直面すれば、
周囲の痛める人々に慰めをもたらす者となれます。

人生を喜んで、心を健やかにお励みください。
日々が良き人生の歩みの時となりますように。

今回の出来事で
共に悩まれたご家族の皆様を!
特に、愛する奥様を!
       どうぞお大切に!!

Posted by Machael Yam at 2018年06月08日 20:49
Mr.Machael Yam

コメントを戴いていたのに8ヶ月も気が付きませんでした。誠に申し訳ありません。(視力が今一つクリアでなく、自分のブログも拡大コピーしながら入力している状態ですので、どうぞお許しください)。今朝、Yam氏のコメントを読み、目から鱗が落ちました。私は、当時名護屋中学校の校長をしていた松永季朗の三男坊です。1968年に唐津東高を卒業し慶応大学経済学部に入学。1969年前後に京都大学に入院されていた吉田丈二さんをお見舞いに行ったことがあります。二年に一回、名護屋に墓参されているとのこと。懐かしさに感涙しております。何年上の先輩なのでしょうか?ご迷惑でしょうが、ぜひあなたにお会いして、当時のお話を伺いたいのですが。遠くにお住まいのようですが、海外なのでしょうか?宜しければ、メールアドレスを教えてください。失礼致しましたこと、どうぞお許しください。
松永克樹



Posted by 松永克樹 at 2019年02月27日 05:27
コメントを書く
コチラをクリックしてください